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2010年4月29日 (木)

「赤プリ」の終焉から建築家の業を思う

100429formercityhall 丹下健三氏(1913〜2005)はわが国では大きな業績を残された建築家のひとりです。戦時下で建築家活動に入られ、「大東亜建設記念造営計画設計競技(1942年)」1等入選等で、注目された俊英でした。戦後すぐに「広島計画」で注目を集め、「平和記念資料館(1955年)」を生み出しています。コンペで勝ち取った最初のメジャーな仕事、「東京都第一庁舎(1957年)」は戦後復興期に、有楽町の「都庁舎総合計画」という壮大な街区計画の中から誕生した唯一の庁舎でした(モノクロ画像は、丹下健三事務所のアルシーブから)。私事ですが、この計画から第一庁舎完成までの過程は、私の建築学生時代と重なり、この庁舎で仕事を始めたいとの願望から1958年に東京都の「技師(建築職)」となることに繋がってしまいました。1965年に退職するまではもちろん、その後もこの庁舎を強い誇りとしていましたが、ご承知のように、80年代に入るとすぐに都庁移転論議が高まり、丹下氏は再びコンペを勝ち抜き、1991年に新宿庁舎を完成させました。
100429violy 自らの建築行為で、僅か34年で自らの代表作を消し去ることに、どのような思いを抱かれていたのでしょうか。残念ながら近代建築保全運動ではこの取り壊しは取り上げられませんでした。跡地は、1997年に「東京国際フォーラム」として、華々しく開館しています。設計者は国際コンペでウルグアイのラファエル・ヴィニオリ氏が選ばれています。(コンペの審査結果は1897年11月でしたが、この審査委員には、小田原市の市民ホールに関わられた近江哲郎氏の父君近江栄先生が加わっていられ、その経過などをお聞きした記憶があります。近江先生は「建築設計競技」という著作を残されました。)
100429akasakaprince 画像は「グランドプリンスホテル赤坂・新館」南面の姿です。このホテルは、赤坂が戦後もっとも栄えた頃、1982年にオープンしました。再度私事ですが、仕事の都合で1981年から赤坂4丁目に居住していましたので、このオープンには強い印象と違和感を持ち続けてきました。赤坂見附を睥睨するような巨大な折板障壁状のビル形態、強い反射光を周辺にもたらすガラス仕上げなど、余りにも主張性の強い商業ビルとして、その設計行為には納得できないものがありました。それでも極めて至近のホテルであり、外国からの来客には、たびたび利用してもらいました。親しい方などは、宿泊のたびに「mousolleum のようなホテルだ」と冗談を言われましたが、たしかに床、壁の主要な内装を白大理石で埋め尽くした冷たい空間は、お墓を思わせるものでした。
 この39階建て7万平米近くもある巨大ホテル新館は、来年の3月で閉館し取り壊されると今朝の新聞で報じられました。これも僅か39年の生涯でした。「跡地は、商業施設やホテルなどが入る複合施設」とのことですが、設計者はどなたになるのでしょうか。丹下氏のご子息も商業施設では実績をあげていられますし、再び赤坂見附に話題となるような「過激な建築」が出現するかも知れません。若い世代の都市景観思想を見せられることになるのでしょうか。
100429yis_resi ところで、この画像はこのホテルの「旧館」、旧李王家邸の残存部分です。現在はバーとフレンチレストランが入っています。1910年の韓国併合によって、大韓帝国の王家も大日本帝国に「併合」され、皇族に準ずる「王公族」が設けられました。『韓国併合ニ関スル条約』第三条にはこう記されています。「 日本国皇帝陛下ハ韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔ヲシテ各其ノ地位ニ応シ相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ且之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スヘキコトヲ約ス」これに従い、最後の韓国皇帝高宗の第7男子「李垠(이은 1897年〜1970年)」は、「昌徳宮李王垠(しょうとくきゅうりおうぎん)」という王公族になりました。この建物は彼が1930年に完成させ、日本国の敗戦とともに1952年に売却され、35室のホテルとなったものです。ここのバーもレストランも幾度も利用していますが、「新館」とはまったく異なった温かい空間です。「旧館は保存される見通し」と報じられていますので、この歴史的遺産の今後の保全が注目されます。
(「赤プリ」の二つの画像といくつかの情報はすべてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から)

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コメント

東京都庁では、奇妙奇天烈の
な建築ため維持費が異常にかかり、
大変だそうです。特殊な構造のため
メンテナンスに特殊な材料や技術が
必要になるからだそうです。
また、IT化に対応できないなど、急速な時代の変化にも対応できないそうです。
そんなわけで、建物の寿命が当初の予想より早く迎えてしまう原因だそうです。老朽化というのは建物自体の劣化ではなく、維持や社会的要請に基づくものなんですね。
いずれも、大建築家としてはすばらしい作品ですが、実用性度外視状態。
某市の仮称ナントカホールもを同様ですよね。
赤プリも負けず劣らずのこけおどし
やはり、
維持費を考えると立て直したほうがよいということなんでしょうか?
某市は同じ過ちを犯さず助かりましたね。

ところで、赤プリですが、高さ100m超と某市駅前のタワービルとほぼ同じ高さだそうです。今の日本でこれだけ高いビルの解体ってほとんど実績がないとおもます。海外なら爆破でしょうが、日本ではいろいろな事情で難しいと思います。いったいどうやって解体するか興味があります。

投稿: 小田原不良市民 | 2010年5月 5日 (水) 14時56分

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