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2013年3月13日 (水)

狂気の安倍内閣

130312tokyo 「主権回復の日」???信じがたい愚行ですが、安倍少年には深い読みがあるのでしょうか。3月7日のFBにも書き込みましたが。いまだに、真意を測りかねています。さらなる対米従属戦略固定化が企てられているのでしょうか。

 まず、ジョン・ダワーの記述の一部を抜粋転記します。『---独立が実際にどれほど高い代価を意味するかに吉田政府が気づいたのは、日本が分離講和に飛びつき、1951年9月、サンフランシスコでの講和会議で華やかな調印式を済ませたあとのことであった。---日米安保条約と、これに付随して作成された「行政協定」は、戦後合衆国が締結した二国間の取り決めの中で最も不平等なものとなった。---(岩波書店増補版「敗北を抱きしめて」下巻 P.378)』

 以下は日経新聞のコラム記事『---それがだれであるかはわからないが、「8日午後5時にプレシディオで安保条約署名式」と米側から通告されたのは外務省条約局長だった西村熊雄である。西村の回想「サンフランシスコ平和条約 日米安保条約」(中公文庫)によれば、吉田が講和条約受諾演説をした7日夜の会議が終わり、午後11時近くに議場を出ようとすると、GHQ外交局長だったシーボルト大使から呼び止められ、連絡された。深夜だったが、吉田が宿泊していたスコット邸に西村は赴き、これを伝えた。講和条約への署名が8日の昼前とされていたから、午後5時はそれから5時間後である。---「安保は不人気」と吉田だけが署名 全権団内部の微妙な空気はプレシディオの署名式会場にはっきりと表れた。米側の署名者がアチソン国務長官、ダレス特使に加え、民主、共和両党の上院議員を加えた4人だったのに対し、日本側は吉田ひとりだった。---(「日米外交60年の瞬間」2012/12/29 特別編集委員・伊奈久喜)』

130313japan_us_security_1951

 Wikipediaの記述『当条約の署名のさい、主席全権委員であった吉田茂首相は独りで署名に臨んだ。講和会議の舞台となった華やかなオペラハウスとは対照的な、プレシディオ国立公園の下士官用クラブハウスの一室で行われたこの調印式には、他の全権委員は欠席しており、唯一同行した池田勇人蔵相に対しても「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言って一人で署名したという。(署名の画像もWiki)』

 吉田茂氏と言う自由主義者「臣茂」にとって、日本国の生きながらえる道はこれしかないと言う悲壮な覚悟での単独署名だったのでしょうか。ほとんど強制連行とでも言えるような米国陸軍将校クラブでの密やかな調印、これが現在の日本の姿の原点となって、翌年1952年4月28日の発効を迎えたのです。これを「主権回復の日」と名付けて政府主催の式典をやると言うのです。1950年に解任されたマッカーサー元帥の言「日本人は12歳」という「めいげん」は、安倍少年の登場を予測していたのでしょうか。

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コメント

松本さんは、マッカーサーを尊敬し、大好きなようですね。マッカーサーの発言を鵜呑みにしていらっしゃいますから。「12歳」発言の真意を確認なさったことがないのでしょうか?

マッカーサーが「日本人は12歳」との発言は、「黄色人種は劣っている」という白人の人種差別ではないでしょうか?
 
マッカーサーが、米上院公聴会で、日本人を「like a boy of twelve」と証言しましたが、これに対して、当時の日本国民は非常に怒ったそうですね。

若狭和朋著「続・日本人が知ってはならない歴史」では、当時の日本人が怒ったのは、「たぶんに誤解です。ドイツは成人の悪党だったが、日本人はそうでなかったという反省の弁」と書いています。

 東京都儀典長・前バンクーバー総領事 多賀敏行氏は東京・永田町の国立国会図書館で、公聴記録を調べて述べていますが、これによると日本は自由主義陣営の一員として留まりソ連側になびくようなことはない、ドイツは悪党だが、日本はそうでない、という日本擁護論の文脈の中で出てきていると書いており、記録を見ますと確かにその通りです。

〜引用
「そうですね、ドイツの問題は、完全に、そして全面的に、日本の問題とは違っています。ドイツは成熟した人種でした。もしアングロ・サクソンが人間の年齢で、科学や芸術や宗教や文化の面でみて、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人も同じくらい成熟していました。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状況にありました。近代文明の尺度で測れば、われわれが45歳という成熟した年齢であるのに比べると、日本人は言ってみれば12歳の少年と言ったところでしょう。

 指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい規範とか新しい考え方を受け入れやすかったのです。日本では、基本的な考えを植え付けることができます。日本人は、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができるほどに、白紙の状態に近かったのです。

 ドイツ人はわれわれと同じくらい成熟していました。ドイツ人が現代の道徳を怠けてないがしろにしたり、国際的規範を破ったりしたとき、それは彼らが意図的にやったことでした。ドイツ人は、世界について知識がなかったからそうしたことをしたのではありません。日本人がある程度そうだったように、うっかり、ついそうしてしまったというのではありません。ドイツ人は、みずからの軍事力を用いることが、自分の望む権力と経済制覇への近道と考え、熟慮の上での政策として、それを行使したのです」

「ドイツは言うなれば確信犯で、冷徹に国益の損得勘定を考えてああいう悪いことをやった。日本はそうではない。まだ国際社会に出て間がなくて、ちょっと道を踏み外してしまった。でも、自分が占領統治をして良い国になったのだから、大丈夫だ」「日本はまだ12歳の少年で、まだ教育可能で、覚えが早くて優等生だ」
〜引用終わり

 日本擁護論の中での「例え」として使われており、多賀敏行氏は日本擁護が真意と言っていますが、私の印象としては多賀敏行氏の主張は理解できますが、例えが例えなだけにやはり日本人を見下しており侮辱だと思います。モノサシがやはり西洋の価値観、文明であり、それが「絶対的」と言っているように思いました。

投稿: マコ | 2013年3月14日 (木) 13時45分

大戦後、日本は国際法上「占領」されたのであって、主権が無くなったのではないのですがね。占領下、天皇陛下も総理大臣もいたし、内閣も各省庁も機能していたし、日本法が適用されていたし、裁判所も裁判をしていたのですが。主権を失っていないのに回復もないでしょう。昭和55年10月9日に衆議院予算委員会で奥野誠亮法務大臣が「昭和二十七年に独立するまでは主権は日本になかった」と発言し問題になり、その日のうちに発言を取消し謝罪し「主権は日本にあった」という政府公式見解が出たのですが。しかし、日本に主権がなかったのなら「日本は消滅した」「皇位は断絶した」「国体は護持できなかった」となるのですが、国体護持のみを願った当時の保守派が聞けば卒倒ものですね。あと「日本は独立した」と言いますが、どの国から独立したと言うのでしょうか。ばかばかしい限りです。
あとサンフランシスコ平和条約は、右翼の人が大嫌いな極東軍事裁判の判決を日本が受諾した条約でもあるのですが、分かっているのですかね。

投稿: さよく | 2013年3月16日 (土) 03時30分

戦後GHQの占領下にあった時は、日本の主権が制限されていました。表現の自由や本土以外の占領地の行政権が認められていなかったのです。

投稿: マコ | 2013年3月17日 (日) 05時53分

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