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2013年8月

2013年8月30日 (金)

被災時の伴侶動物同行避難

130830koumei 環境省の中央審議会には「動物愛護部会」というのが設置されていて、必要に応じて年に数回部会が開催されています。霞ヶ関の審議会等の傍聴経験はあまりないのですが、この部会の傍聴者の多さにはかなり驚きました。私が傍聴した際は100人ほど居られました。市や県の傍聴者制限は厳しくて、3人とか5人とか言うのさえあります。環境省自然環境局の総務課に「動物愛護室」が置かれて、6〜7人の職員んさんが執務されていて、この部会の事務局を担っています。

 衆参両院の委員会などでも、昨今は「伴侶動物」「動物看護」「同行避難」などと言う目新しい用語が市民権を得てきたようです。
 今回の環境省の「指針」もこういった「伴侶動物」の社会的環境の変化に対応したものと思われます。災害時対応は、基礎自治体の力量に掛かってきますが、現在の「地域防災計画」では、その扱いを「各避難所運営委員会」の判断に任せるとしているものがほとんどで、マニュアルは整備されていません。行政、獣医師、飼育者、関連商業者などによる検討委員会を設置して、「同行避難マニュアル」の策定を急ぐべきです。
 小田原市の場合、「小動物」の所管課は環境保護課、避難は防災対策課となっています。現行の「小田原市地域防災計画」策定の際に、「小田原城址公園愛犬家の会」のメンバーと小田原獣医師会の獣医師とで担当職員との「非公式」の話し合いが一度だけもたれたことがありましたが、行政側は避難所運営委員会の判断に任せると言うだけ、同行避難の具体化には踏み込めませんでした。
 被災時の混乱を少しでも軽減できるように、全市の避難所が有効に対処できる具体的マニュアルを、早急に策定する必要に迫られていると思います。

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2013年8月26日 (月)

お城でリハビリウォーキング

130826walking1 7月26日に退院して、今日でちょうど1カ月、東海大病院のリハビリPTの言いつけ通り、右肩・腕のストレッチに励んでいますが、下半身もよれよれですので、昨日の雨の中から、初めてのリハビリウォーキングを始めました。今日は1時間ほど遅く6時時半ころ出発。市道0087を東進、お茶壺橋・二の丸広場・学橋・お堀端通り・馬出門・お茶壺橋・0087を西進というコースで7時半ころ帰宅。わずか2,818歩でした。大賀ハスは元気な葉だけを眺めてきました。

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 お堀端通りのサクラ古木にこんな表示がありました。老朽サクラ3本を伐採し、年末近くに補植するとの説明はいただいていましたが、やはり痛々しい思いがします。この通りは史跡外ですから、観光課のお仕事のようです。樹木管理は、この観光課がお城の周辺、史跡内は文化財課、市道脇は道水路整備課、公園はみどり公園課となっているようです。植栽管理課なんて課は難しいのかな。植栽の管理は、都市経営の重要施策と思います。

130826walking3 お茶壺広場には、こんな古びた警告板が相変わらずたっています。この看板は2008年に、この広場に8本ほど立てられたものの残骸です。「立ち入り禁止」と言う規制から、「小田原城址公園愛犬家の会」が発足。放置糞の収集活動を続け,飼い主の啓発努力を続けてきた結果、現在では放置糞は見られなくなりました。そろそろ、この醜い警告板は撤去しても良いのではないでしょうか。今でも、幼稚園遠足からの苦情があるのでしょうか。

130826walking4 これは、道路脇の「工事告知看板」で、市道0087の仮舗装を掘り起こして本舗装をすると言う工事のようです。今朝、水道局職員さんと小田原ガスの社員さんが説明にみえられました。この工事はまた別途で、市道0087の内青橋方向の「国安道路」、問題の狭隘道路、相洋高校をはじめとする生徒諸君の通学路、幅員5mほどのひどい危険道路(競輪送迎バスさえ通ります)、ここを掘削して、10月から上水道管とガス管の交換工事をするとのこと。夜間工事で車両通行禁止にしての工事とか。難しい工事になりそうです。いつまで、この問題道路を放置しているのだろう。沿線住民が死に絶えるまで待っているのだろうか?都市経営者は何を考えているのだろう。競輪客の立ち小便姿を見せつけられ、生徒たちと競輪バスのすれ違いを見るたびに、怒りが込み上げる。小田原無政府状況か?

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2013年8月25日 (日)

租税回避 巨万の富隠す漆黒の闇

130825akahata 今日の日曜日、妙に涼しい雨天日でした。でも、デーゲームで阪神タイガースは9対4でドラゴンズに勝利。巨人は6回表で8対1で横浜にリード。横浜頑張れ。

 そんな気分で、このような傲慢な企業社会の蠢動を目にすると、涙が出てきます。この記事は1面ですが、16面の特集記事を見ると、「三井住友ファイナンシャルグループ」が6カ国(アイルランド、オランダ、中国香港、米国デラウェア州、英領バーミュダ諸島、英領ケイマン諸島)に設立しているタックスヘイブンの子会社は27社で、その子会社の資本金総額は2兆788億円とのこと。「巨万の富隠す漆黒の闇」という古風な見出しの特集記事ですが、わが日本資本主義国の高度化はすごいですね。自然災害も、原発災害も、政治災害もすべては企業と富裕層の論理と知恵で漆黒の闇に隠れてしまうのでしょうか。国税も地方税も義務的諸保険料も、素直に公明正大に乏しい懐からひねり出してる身にとってはなんとも空しい気分です。
 せめて、阪神タイガースが5ゲーム差を詰めて欲しいなどと、痛々しい思いの日曜日でした。(巨人16 vs 2横浜でした。読売新聞とDeNAの差ではないと思いますが----)

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2013年8月22日 (木)

被災時の応急バラック!!!

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 今朝の東京新聞の記事です。この記事で、自らの住居体験が急に蘇ってきました。「バラック」、元来は兵舎の呼称のようですが、敗戦後は「バラック住まい」と言う日本語が敷衍していました。朝鮮京城府から佐賀県武雄市に逃げ帰って2年4ヶ月の緊急滞在から、埼玉県入間川町を経て東京渋谷区に転居しました。宿無しの一家でしたが,親族所有の大型家屋(初台)に転がり込んで8カ月、新制代々木中学に通いました。

 1949年3月、苦難の末に取得したのがこのバラック(幡ヶ谷)でした。焼け残り木材と焼けトタンでできた家です。でも、大工さんが作ったのでしょう、かなりきちんとした6畳ふた間の家でした。敷地は100坪ほどあり、立派な畑がついていました。ここに1年半ほど住み着いて、住宅金融公庫の被災者融資で、畑のところに、20坪以内と言う融資制限いっぱいの平屋(4間×5間)の家を造りました。新制高校1年生、私の第1号設計です。かなり知恵を絞った合理的な設計といまだに自負しています。この結果が私を「建築」の世界に引き込んだようです。(この家は増築を重ねましたが現存しています)

 大学3年のとき、残っていたバラックと新家屋の間に、私の「設計室」を、ほぼDIYで作りました。2,400mmの立方体と言うコルビュジェばりの「最小限建築」でしたが、名建築?でした。(現存しません)

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 東日本の大被災後、鋼製プレハブの仮設住宅が,荒っぽく建てられましたが、その居住性のあまりの悪さ、供給の遅延などから、地域独自の「木造仮設住宅(3間×3間)」が整備され始めました。画像はその一つ、岩手県住田町のコンペで選ばれた「最小限住居」です。この平面計画、田の字型というのでしょうか、極めて簡明なものです。わが第1号設計の姿(少し大きいですが)を思い出させました。木造応急住宅としての日本的解決の手法は同じだったと感じ入りました。(取り留めない懐古記事でご無礼します)

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2013年8月17日 (土)

光化門と景福宮

130817seoul この8月は近年になくきつい月です。肩腱板断裂の手術後、右肩に保護装具をつけられて1カ月、昨日の16日に、やっと外していただきました。

 人心地がついて、昔話です。画像は1992年に行われた「国民学校」の同窓会の集合写真です。場所は「朝鮮京城府、朝鮮総督府」前での記念撮影です(前列右端にいるのが21年前の私です)。
 私は、1941年4月、新制度になったばかりの「国民学校」に入学し、1945年の敗戦を迎えた夏休みのまま学校解散、9月に日本国に逃げ帰りました。1945年8月15日の天皇「詔」がNHKで放送され、植民地の日本人たちは茫然自失、その夜、トラックに乗った朝鮮人たち(当時は日本国籍)が見慣れない赤旗を振ってデモンストレーション走行したのにも、ただ唖然として眺めているだけでした。警察官も下級の巡査は皆朝鮮人でしたから、平然と進行したのでしょうね。
 この朝鮮総督府は、1910年の日韓併合後、景福宮(大韓帝国王宮)の正門光化門を取り壊して1926年に建てられたものです(設計者はドイツ人のGeorg Lalande 設計途中で死去)。光化門は廃棄されるはずでしたが、柳宗悦らの尽力で1Kmほど西の位置に移築して残されていました。市電「光化門駅」は子供時代に慣れ親しんだ駅でした。王宮の前に居座っているこの大建築、歴史的建造物とは言え植民記憶の象徴、屈辱の象徴ですので、たびたび撤去の声が上がっていましたが、庁舎や博物館(写真は同窓会一同が見学後の撮影)などに利用されていましたが、1995年に解体撤去されました(尖塔部分だけが保存されています)。

130817kohkamon 2010年8月、大工事の末に原初の位置に堂々とした「復元整備」が完成披露されました。画像はおおぜいの市民に公開された日のバーズアイ写真です。

 8月15日は「光復節」と呼ばれる独立回復の祝祭日です。朴大統領のしなやかな演説「過去を直視しようとする勇気と、相手の痛みに配慮する姿勢がなければ未來へ進む信頼を積むのは難しい」は、隣邦日本国への苛立を抑えた忠告でした。
 この熱暑の8月、東アジアの友好を破壊しようとする心ない蠢動を押さえ込むのは、私たちの国際的な責務になりつつあります。

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2013年8月14日 (水)

戦意高揚はどう行われたか

130814kanagawa1_3 8月11日の日曜日、恒例の「8月15日を考える会」の集いが開かれました。今回は初めてとなる「音羽会館」の集会場を使わせていただきました。小田原市市民会館や伊勢治書店のギャラリーなど、さまざまに工夫しながら開催を続け今回で9回目となります。市民が使い易い小ホール(100〜200人収容で音響がきちんと配慮されたもの)が欲しいとつくづく感じました。

 ご参集いただいたみなさん、主催者の想定を超えてしまい作成した資料の不足を招くと言う不手際でした。窮屈な会場にも関わらず、みなさん最後まで熱心に聴視されていて、末席から眺めていた当方涙ぐむほどでした。

 画像の記事も、しっかり読んでいただきたいのですが、多分この記者さんもこのような話は未経験のものだったのでしょう。参会者の中でも高齢者は、あらためて聞くまでもないと言う感じでしたが、若い方はかなりショックだったようです。
 満蒙開拓に動員され、国策に翻弄されていのちを長らえた臣民は幸せもの、中国大陸の土となった花嫁、子供、母親-----個々人の生命は一束いくらと言う資材でしかなかった時代、当時の映像が淡々と語ってくれたのです。
 いま、68年後のいま、何事もなく忘れ去ったかのごとくにして、再び個々人が「公益」と言う国家利益のために利用される、そんな時代風潮が忍び寄って来ています。今朝の新聞では、東京都立の高校生が「宿泊防災訓練」と称して自衛隊に体験入隊させられる、そんな東京都の施策が報じられていました。個人が「国体」の捨て石にさせられる、そんな忠君愛国の時代は、絶対に招いてはなりません。「ナチス」ではなく、戦争の過去から学んで欲しい、そんな思いを強く抱かされた集いでした。

130814kanagawa2_2 この画像も、神奈川新聞今日の記事です。「戦時下の小田原地方を記録する会」は、1979年から熱心に、継続的に調査記録活動を続けられています。「戦争と民衆」という会報は、この8月に71号を出されるまでになっております。

 小田原市は、今年「平和都市宣言」20周年を迎え、「平和を守る」から一歩進めて「平和を創る」平和推進事業をなさるとのことです。このような「明治44年制式」とされる貴重な「戦争遺産」など、まだまだこの地には保存すべき戦争遺産は存在するものと思われます。小規模であれ「戦争記録保存館」の設置事業に取り組んでいただきたいものです(2008年9月に「提言書」を提出しました)

 本年度の「小田原市平和推進事業」が、「平和を創る」事業となることを心から願っています。

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2013年8月 6日 (火)

「人道に対する罪」

130805tokyo 今日8月6日はヒロシマ被爆から68年の「記念日」。そして9日にはナガサキの被爆、ソ連の参戦。5日後の14日にはポッダム宣言を受諾して連合国軍に無条件降伏。

 この大戦を主導して来たルーズベルトは、この年の4月12日に急死しました。「鬼畜死す」として、子供ながらに大喜びしたことを記憶しています。米国大統領は、戦時故、無選挙で副大統領のトルーマンに変わりました。連合国軍のリーダーは、ルーズベルト、チャーチル、スターリンだったのですが、ルーズベルトの急死、トルーマンの登場で、ソ連嫌いのチャーチルとトルーマン、対するスターリンの対決、戦後処理の国益の衝突があらわになって来て、対日ソ連参戦、ポッダム宣言の受諾、大日本帝国の降伏が目前に迫り、「原子爆弾」の軍事実用を急いだ結果がこの二つの都市の惨事となったというのが通説のようです。
 戦争犯罪には「人道に対する罪」というのがあるようですが、トルーマンとチャーチルは、この戦争犯罪の疑惑十分な政治家ではないでしょうか。大戦終結が、目前に迫っている時に、今さらのような無差別大量殺戮は許されるものではありません。
 広島市での「広島原爆追悼記念式典」のTV中継を観ながら、戦時政治の惨さ、悲惨さ、国家のどん欲さに怒りが止まりませんでした。わが「ナチス副総理」も安倍総理とともに現地に居たのでしょうか。

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