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2013年8月22日 (木)

被災時の応急バラック!!!

130822tokyo

 今朝の東京新聞の記事です。この記事で、自らの住居体験が急に蘇ってきました。「バラック」、元来は兵舎の呼称のようですが、敗戦後は「バラック住まい」と言う日本語が敷衍していました。朝鮮京城府から佐賀県武雄市に逃げ帰って2年4ヶ月の緊急滞在から、埼玉県入間川町を経て東京渋谷区に転居しました。宿無しの一家でしたが,親族所有の大型家屋(初台)に転がり込んで8カ月、新制代々木中学に通いました。

 1949年3月、苦難の末に取得したのがこのバラック(幡ヶ谷)でした。焼け残り木材と焼けトタンでできた家です。でも、大工さんが作ったのでしょう、かなりきちんとした6畳ふた間の家でした。敷地は100坪ほどあり、立派な畑がついていました。ここに1年半ほど住み着いて、住宅金融公庫の被災者融資で、畑のところに、20坪以内と言う融資制限いっぱいの平屋(4間×5間)の家を造りました。新制高校1年生、私の第1号設計です。かなり知恵を絞った合理的な設計といまだに自負しています。この結果が私を「建築」の世界に引き込んだようです。(この家は増築を重ねましたが現存しています)

 大学3年のとき、残っていたバラックと新家屋の間に、私の「設計室」を、ほぼDIYで作りました。2,400mmの立方体と言うコルビュジェばりの「最小限建築」でしたが、名建築?でした。(現存しません)

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 東日本の大被災後、鋼製プレハブの仮設住宅が,荒っぽく建てられましたが、その居住性のあまりの悪さ、供給の遅延などから、地域独自の「木造仮設住宅(3間×3間)」が整備され始めました。画像はその一つ、岩手県住田町のコンペで選ばれた「最小限住居」です。この平面計画、田の字型というのでしょうか、極めて簡明なものです。わが第1号設計の姿(少し大きいですが)を思い出させました。木造応急住宅としての日本的解決の手法は同じだったと感じ入りました。(取り留めない懐古記事でご無礼します)

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