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2013年9月 1日 (日)

史跡と市民安全の共生

130901tokyo 90年前の大震災、今日の各紙はそれぞれに特集報道しています。この被災は、大正12年と言う新時代の終焉の時期に発生したこともあり、さまざまな社会的な災害も歴史に残されています。この記事は関内駅傍の横浜公園に避難された方の経験が語られています。

 東京では、被服廠あとの広場に集中した3万を超える方の悲劇的焼死が語り継がれています。震災の死者はほとんどが焼死であったと言われていますが、火災時に大きな空地や公園を避難先とするのは真っ先にすることは、現在の社会でも同様と思われます。

 私たちの小田原市中心部では「小田原城址公園」などに避難先される方も多くなることは容易に想定されます。現在、この「公園」には樹木は豊富です。樹齢100年を超える古木も多数あります。

 しかし、ここは「史跡指定」され、20年前に策定された「整備基本構想」に基づいて長期にわたる整備事業が実施されています。その過程で多くの古木が「伐採」され続けています。馬出曲輪の整備では、市民の大きな抗議の声の中で樹齢130年の松が「伐採」されました。10月には御用米曲輪整備のため土塁上のケヤキの古木8本が「伐採」され、その他のケヤキも大規模な枝下ろし、高さの縮小がなされるようです。

 この土塁上のケヤキ群は、長年の放漫管理のおかげか自然林の様相を示しながら、市街地と城址を隔てる、大切な遮蔽林として残ってきました、昨年から大規模枝下ろしを続けた結果、かなり寂しい遮蔽林にはなってきましたが、その役割は残り続けています。伐採後は補植で補うとのことですが、大木になるまでには100年はかかるのではないでしょうか。横浜公園の樹木の防火性能で命拾いをされたと言う経験を、この小田原でも活かしたいものです。「史跡とミドリの共生」「史跡と市民安全の共生」、重要な課題だと思います。「史跡」と言う縛りのために生命を支える「ミドリ」を消して行く施策は再考されるべきです。

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